WILD考察/結局のところ『WILD』ってどういう意味なんじゃい

 

 

4/28から5/25まで東京グローブ座にて上演された舞台『WILD』。まだ大阪は残っていますが、ひとまず裕翔くん、ロランスさん、斉藤さん、お疲れ様でした!元号をまたぐ初主演舞台。最高でした。大阪で更に昇華された舞台となっているよう、お祈りしています。

 

さて、WILDを見てあれこれ考えたことをまとめることにしました。前回のブログは1年前に浮所くんやべえって喚いてるブログだったらしい(笑)。WILDはすごく難しかったけど、すごく面白かったなと感じています。うまくまとめられるか、そして伝えられるか不安ですが、一人の裕翔担の一解釈として読んでいただければ幸いです。


ちなみに私は4/28(初日)、5/20夜、5/23夜の3公演を見に行きました。見るごとに解釈は変わったり加わったりしていったのだけど、今回は最終的に行き着いたものを書きたいと思います。


ただ、先に言っておきます。すんげえ長いです。ごめんなさい。


では以下、ネタバレを含みますので、大阪まで取っておきたい皆様はお控えください!!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


まずこの戯曲のポイントとして「分からないことが多い」点が挙げられると思います。


・「女/男」は何者で、その目的は何なのか

・「あの人」は何者で、なぜロンドン大使館に閉じ込められているのか

・なぜアンドリューは「あの人」を求めているのか


これら物語の根幹となる部分は最後まで明かされませんし、もっといえばアンドリューが何をしたのかもはっきりとは明かされていません。もちろんスノーデン事件に着想を得ているという前情報から、ある程度把握することはできますが。

そんな状況にもかかわらず、戯曲には伝えたいものがあり、私たちは心を動かされるわけです。よく考えると不思議な気がします。

 

では、この戯曲では何を伝えたいのか?

私が考えた結論は、以下の3点です。

  1. プラグマティズムへの警鐘
  2. SNS・情報社会への警鐘
  3. 「名前」と「存在」の不確実な関係性

これらに対して『WILD』というタイトルが複数の意味で絡んでいると考えています。


また劇中では休憩がありませんが、便宜上、暗転のタイミングで第1場面から第4場面と区切らせていただきます。

 

 


プラグマティズムへの警鐘

 

プラグマティズムという言葉は劇中の第3場面で用いられます。

アンドリュー「動揺なんてしても何の役にも立たない!」

女「プラグマティズム?」

このプラグマティズムという概念は、メッセージの展開の中心にあると感じています。


これは私が中高6年間でキリスト教教育を基盤とした学校に通い、倫理学をみっちり学んだからこそ強く感じるのかもしれません。が、一解釈として捉えていただければ幸いです。そして私の稚拙な日本語と知識ではありますが、なるべく分かりやすく、書きたいと思います。

 


プラグマティズムは、19世紀後半にアメリカで提唱された哲学です。ヨーロッパで発展してきた哲学が多い中、プラグマティズムアメリカが発祥であるため、アメリカ国民と社会に強く根付いてきました。


ではどのような考え方なのか。プラグマティズムを提唱したパースはこう述べています。

「ものの概念を考える時には、それが実現した結果や効果、影響力を考えよ。またその結果こそが概念と一致する」

これは言い換えると、「実現しなければ=役に立たなければ意味を成さない」ということです。


難しいので具体的に例を挙げると、「電車って何だろう?」と考えるとします。その答えはおそらく「ある場所からある場所へ移動する手段」となりますよね。つまり移動する上で役に立つものであるからこそ、電車という存在が成り立つのだ、ということです。

 

アメリカ人であるアンドリューは、おそらくプラグマティズム的考えを持っていたでしょう。あの行動の動機も「自分の目で見た信じがたい真実を公開し、世界を変えるきっかけを与えたい」。目を疑うほどの現実を世に知らしめることで、世界を変え役に立とうとしたわけです。


しかし、機密情報を公開した後の世の中は、想像とは違う反応を見せました。女が言ったように、世の中はその事実を受け入れる準備ができており、「矛盾に指を指しただけ」。つまり、アンドリューの行動には世の中を変えるような影響力はなく、役には立たなかった。


プラグマティズムの考えを持つアンドリューにとって、自分の行動が役に立たないということはその存在を失ったも同然なのです。


このように、結果や効果に意味を見出すプラグマティズムは、存在の価値を失くしかねないという警鐘があるように感じます。この戯曲がイギリス生まれという点も、一つポイントでしょうか。

 

 

ここまでを整理すると、WILDには2つの意味があると考えます。


女は劇中でアンドリューに対し、何度も「あなたは情報を公開することで何をしたかったの?」と尋ねます。この問いの多さから、WILDWhat I Love to Do=私がしたいこと』がまず解釈として考えられます。


アンドリューにとっての『WILD』は、機密情報を公開し、世の中を変えることでした。しかし機密情報の公開はWILD=横暴な』行動であったため、それを成し遂げることはできなかった。

 

「僕の現実が綻び始める」というコピーも、プラグマティズムの崩壊を暗示していると私は考えています。また『WILD』の題字には下半分だけにノイズが入っていますが、考えの基盤が揺らぎ、葛藤するアンドリューの信条を表現しているような気がします。


さらに裕翔くんがゆとぺでグッズ製作に言及した時も、「作品のイメージに沿ったものを」と書いていました。機密文書ファイルで『What I Love to Do』と頭文字だけが赤くなっていることからも、この意味合いに対する思いはカンパニーとして強いのではと感じています。


ちなみに私は初日公演から帰宅し、このファイルを取り出して頭文字が『WILD』と赤くなっているのに気付いた時、思わず変な声が出てしまいました(笑)。みなさんは最初から気付いていたのでしょうか…。私は「顔がいい!!!」の感想しか持たずに購入しました。ごめんな裕翔くんすぐに気付けなくて……

 

 


SNS・情報社会への警鐘


こうしてアンドリューは、世間では意味を持たない過去の人となり、何かしらの組織に属さない限り存在しえない立場となってしまいます。アンドリューは苦渋の決断の末、ロシアのパスポートを持つことに決めたのです。


ただ一つ、第4場面の序盤、緑のライトに変わった直後です。しつこく男女の所属先を尋ねたアンドリューに対し、女は「政府でも企業でも、どこに所属しているかは大して変わらない」というような発言をしています。どこか矛盾している気がしませんか?


現代では確かに所有、所属がどんどん曖昧になってきています。SNSが発展し、溢れるほどの匿名の情報が出回る世の中。最近ではシェアリングエコノミーなど、所有権を誰が持つのか分からないものが増えました。今後もこのようなビジネスは発展し続けるでしょう。


結局それは、誰の、何なのかアイデンティティの喪失が謳われる中、最終的に行き着く先がアンドリュー、つまり存在すら失った人なのではないでしょうか。

 

 

 

③「名前」と「存在」の不確実な関係性


最後に、物語の中で明かされることのないアンドリュー以外の人物の名前。この「名前」と「存在」の不確実な関係性には、実は物語の第一声から伏線が張られています。

「ミス・プリズム!??」

プリズムとは、米国防省の監視システムの名です。この点も皮肉な冗談ではありますが、それよりも。

 

ミス・プリズムとは、『真面目が肝心』という喜劇の登場人物の名前です。この喜劇、なんとオスカー・ワイルドという劇作家が執筆したものなんです!!!というわけで私が考える『WILD』の3つ目の意味合いは、かつての劇作家に掛けた暗示。

 

この喜劇、内容が最高に皮肉です。

詳しくはこちらをご覧ください。

 『まじめが肝心』オスカー・ワイルド ( 小説 ) - カピバラ文庫 - Yahoo!ブログ


要点をまとめると、主人公もその友人も「アーネスト」という偽名を使ったことで、「アーネストという名の男性に憧れていた」と語る女性と結ばれるのです。嘘なのにアーネスト(真面目)、でもその名のおかげで幸福をつかむ。


アーネストという人は元々は存在していませんでしたが、「名前」を付けたことによりその人は「存在」することになりました。アンドリューは執拗なまでに女と男の名前を知りたがり、そうでないと信用できないと言っています。しかし、実際には「名前」と「存在」は不確実な関係性であり得るのです。

 

「匿名性は力を持つ者だけに与えられる贅沢だ」

女はこう言います(偽名も匿名の一つです)。アンドリューはその名と共にあらゆる情報が世界に知られ、権力やプライバシー、存在価値をも失いました。しかしアンドリューの周りを固める女、男、そして「あの人」は誰もその名と情報を明かさない。権力者だからこそできることであり、悲しいまでの対比がそこにはあるのです。

 

 

ちなみにこれは完全に余談ですが、「名前」と「存在」の不確実な関係性は、『ピンクとグレー』のごっちかりばちゃんかの話に少し通ずる部分があるなと思いました。権力がどうとかいう話は抜きにして。


原作を読んで、えっ裕翔くんが主演なのにごっち…ではないよね?となり、62分後の衝撃というコピーを見て、という過程を全て味わった人にはあまりピンとこないかもしれません。


でも映画だけを純粋に見た人は、「えっ!さっきまでごっちだと思ってたのに、りばちゃんだったの!?」となるわけです。一見「名前」はその人を表す固有のものだと思われがちですが、実際の「存在」は違うこともあるのですね。もしかしたら、私たちの周りにも。

 

 

 

まとめ


こうして考えてみると、世の中のいろんなものが信じられなくなります。絶対に揺るがない一つのものだってないし、様々な指標を持ったとしてもどれも覆される。でも人は根本的に何かにすがらないと生きていけないし、何かを信じていたい生き物なのでしょう。


だから、矛盾に絶望する人々を描くのではなく、アンドリューが公開した矛盾をおかしいと分かっていても「ラクだから」信じ続ける人々をリアルに描いたのだと思います。パンフレットで小川江梨子さんが「絶望感じゃなくて人を信じたいという根源的な思いが描かれていると思う」と言っていたように。

 

 

 

 

以上!!!長い!!!本当にごめんなさい!!!


でも私はこの戯曲がとても好きだし、この役を演じた裕翔くんが好きだなと思いました。この際、私の文章の意味が全然わからなくてもいいです。どうかこの溢れんばかりの好きだという気持ちさえ伝わっていればうれしいです!!! 

 


これだけ長く考察書いたくせに、裕翔くんに対する感想は書いていないので、元気が出たらまた書きます。そちらはもっと頭悪くて語彙を失うと思います……(笑)